その昔、「知ってるつもり」ってテレビ番組でやっていたんだけど、その時のインパクトをふと思い出して調べてみた。凄い話なので紹介します。
中村久子の生涯 —四肢切断の一生—
明治34年ごろの高山の町は、春の山王祭なるといろいろな見せ物小屋が立ち並びにぎわった。そこの興行師たちは久子のことを聞き込むと彼女を買い取りたいと持ち込んできた。貧しい畳職人の栄太郎は、そんな話が持ち込まれたとき別人のようになって怒った。「どんなに貧しくても、たとえ親子が餓死しても、不幸なこの子を興行師などの手に渡すものか。誰が何と言ってきても、この子は、俺の手で短い一生を終わらせてやる」と栄太郎は太い拳で涙をぬぐいながら、いつも友人にそう思いのたけを訴えていた。長男の栄三が生まれても栄太郎の思いは少しも変わらなかった。そんな栄太郎であったが、久子が七歳のときに突然、急性脳膜炎で亡くなってしまった。
8歳になった久子は入学通知を受け取った。しかし、当時障害の子に学問はいらぬという空気が強く、永久に入学の日はこなかった。その年、母のあやは、8歳の久子を連れて藤田という家に再婚した。あやの再婚には、祖母も親類一同も反対であったが、それ以外に母子が生きる道はなかった。また、弟の栄三も育児院へつれていかれることになる。そのような環境の中で、あやは一つのことを考えていた。両手両足のないわが娘に、何かを身に付けてやらねば・・・と。久子が泣いてもわめいていも、何か一生食べていけるものを身に付けてやらねば・・・と。親は子の一生を面倒見るだけ長生きはしないのだ。久子にたいする母の躾は目に見えいてきつくなった。あやは久子に着物のほどきものを言いつけた。
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